百舌鳥八幡宮について

御祭神

写真:外観

応神天皇

配祀 神功皇后
   住吉大神
   春日大神

由緒

所伝によれば、神功皇后が三韓征討の事終えて難波に御帰りになった時、この百舌鳥の地に御心を留められ幾万年の後までもこの処に鎮りまして、天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てられ、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建してお祀りされたと伝えられています。その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を擁しました。

古い記録としては、現在滋賀県長浜町に応安六年在銘の古梵鐘があります。これはもと本社の什物です。その銘文中に「近衛天皇の仁平年間に本社の梵鐘が鋳造された」旨記されています。又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元三年に、当社が石清水八幡宮の別宮となっていたことが見えます。また後宇多天皇の建治年間には、三百石の年貢米を本宮たる石清水八幡宮に納めていたことが記されています。

又、新葉和歌集には「和泉国万代別宮に参籠し侍りける時よめる」として 「民安く国治まれと祈るかな、人の世よりもわが君の為」という二品探勝親王の御歌が載せられています。親王は亀山天皇の皇子恒明親王の王子であらせられ、南北両朝戦乱の世を憂い給うの余り、当社に参籠されました。このように当時皇室の御帰信の深かったことが知られます。前記、応安六年在銘の梵鐘を奉納したのは当時和泉国の領主であった九州の豪族大内氏であり、このように武家の崇敬も厚かったです。その後、大内氏の和泉に於ける兵乱や、降っては元和元年大阪夏の陣の兵火等、度重なる災禍を蒙った為、次第に昔日の壮観を失い、什宝、古文書等も多く散逸しました。しかし、その後もなお当社は地方信仰の中心として重んぜられました。徳川時代に於ても、青蓮院宮・町尻家・随心院門跡・土屋候その他より奉納寄進などのことあり、近くは明治八年大久保利通卿が参拝され、拝殿の額面を揮毫されました。なお、大阪城代の交替の際には、必ず当社に参拝するのが例とされました。また、毎年の例祭には堺町奉行が参向する定めとなっていました。公武の帰信既にかくの如くであったことからも、庶民の崇敬の厚かったことも当然でありました。氏子の信仰はもちろん、古来、大阪市、堺市及び近郊の人々の参詣多く、江戸時代に大阪堂島より二三百人の大団体が献納物を奉じて賑々しく参拝したことが記録に見られました。堺市の如きは準氏子地の如き関係を有し、現在でも厄除開運として市民の信仰が深いものがあります。

社殿及び境内

写真:外観

社殿は南面し本殿・幣殿・拝殿・東華門・西華門を具備、江戸時代の建築であり昭和四十六年に修復されました。社殿の大きさは府下屈指と言われます。外に若宮社・市杵島社・稲荷社・招魂社・絵馬殿・神庫があります。社域約一万坪、地形起伏して老樹があり、池があります。中でも社前の巨木楠樹は樹齢約八百年で、府、天然記念物に指定されています。それは枝葉八方に拡がり偉観人を驚かせます。

摂末社

若宮社

写真:若宮社


市杵島社

写真:市杵島社


水神社

写真:水神社


稲荷社

写真:稲荷社


招魂社

写真:招魂社


附近の史蹟

写真:夜の風景

百舌鳥は又百舌鳥耳原とも呼ばれ、古くは「毛受」「毛須」「万代」等の字を当てられたこともあります。仁徳天皇は特にこの地を好ませられ、屡々鷹狩を催し給い、遂にその陵地と定められました。わが国最大の前方後円墳として有名な仁徳御陵は、当社の西約二キロにあります。その他当社の西方の地にある御廟山と称する前方後円墳を始め、付近には大小多数の古墳があります。いわゆる百舌鳥古墳群は学問的にも有名であります。