応神天皇
配祀 神功皇后
住吉大神
春日大神
百舌鳥八幡宮は世界遺産である百舌鳥古墳群の中心に鎮座し、御祭神は応神天皇をはじめ神功皇后ほか三柱を奉斎し、本殿西側の若宮社では仁徳天皇を奉斎する百舌鳥古墳群に大変縁のある神社です。なかでも当社の西方に位置する御廟山古墳は応神天皇の初葬陵としての伝承があり当社の奥の院として崇敬されてきました。
社伝によれば神功皇后が三韓征討の事終えて難波に御帰りになった時、この百舌鳥の地に御心を留められ「万代までもこの処に鎮まりまして、天下泰平民万人を守ろう」というご誓願を立てられ、後の欽明天皇の御代に八幡大神の宣託を受けてこの地を万代(もず)と称し神社を創建してお祀りしたのが始まりとされています。以降江戸時代末期まで「もず」の地名は「万代」と記され、神社名も万代八幡宮と記されておりました。平安時代には国家鎮護神として朝廷の崇敬が厚かった京都の石清水八幡宮の和泉国万代別宮として栄え、社僧四十八ヵ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町を擁したと言われています。国の重要文化財に指定されている石清水八幡宮所蔵の古文書には長治元年(一一〇四)から健治二年(一二七六)にわたり度々当社に関する記録が認められることから別宮として重要視されていたことがうかがえます。また当時和泉の国の領主で九州・山陽などの守護でもあった豪族の大内氏により梵鐘が奉納されたことから武家の崇敬も厚かったことがうかがえます。現在梵鐘は大阪夏の陣で徳川方に徴収された後、滋賀県長浜市にある勝福寺所有の市の文化財となっております。さらに南北朝時代には第九十代亀山天皇の皇子恒明親王の王子である深勝二品法親王が南北両朝の戦乱の世を憂い当社に参籠された際に詠まれた和歌が新葉和歌集に選出されておるなど、当時は皇室の御帰信も深かったことが知られています。
その後、大内氏の和泉における兵乱や大坂夏の陣の兵火など度重なる災禍を被り、什宝や古文書等も多くが散逸してしまいました。しかし、こうした中でも当社は地方信仰の中心として重んじられ、江戸時代には青蓮院宮・町尻家・隋心院門跡・譜代大名の土屋家などから数多くの奉納寄進がされておりました。また、徳川家からの崇敬も厚く、歴代大阪城代は就任時に必ず当社に参拝しており、堺奉行も毎年例大祭に参列することが習わしとなっておりました。徳川家から葵の紋の使用も許されており、拝殿には葵の紋が使用されております。明治時代に入っても政府要人の参拝は続き、明治の元勲である大久保利通卿や大久保利通卿の三男で大阪府知事でもあった大久保利武も参拝され、それぞれ扁額を揮毫されました。このように当社は創建より公武の崇敬を集めており、多くの戦乱による荒廃もありましたが、今日に至るまで幅広い層からの崇敬をうけて参りました。
御本殿の他に若宮社・稲荷社・市杵島社・招魂社・水神社・楠社を奉斎し、境内には絵馬殿・神輿蔵・放生池などもあります。中でも本殿前の御神木は樹齢約八百年を超える巨木で大阪府の天然記念物に指定されております。
百舌鳥は又百舌鳥耳原とも呼ばれ、古くは「毛受」「毛須」「万代」等の字を当てられたこともあります。仁徳天皇は特にこの地を好ませられ、屡々鷹狩を催し給い、遂にその陵地と定められました。わが国最大の前方後円墳として有名な仁徳御陵は、当社の西約二キロにあります。その他当社の西方の地にある御廟山と称する前方後円墳を始め、付近には大小多数の古墳があります。いわゆる百舌鳥古墳群は学問的にも有名であります。